「「徹夜のナルシズム」のナルシズム」のナルシズム

徹夜のナルシズム
http://blog.livedoor.jp/kensuu/archives/50224832.html
「徹夜のナルシズム」のナルシズム
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50540496.html
を読んだ。

自己体験と一般論と「数学的に証明さえされている」らしいことが混在してよく分からないのだが、要するに「「徹夜のナルシズム」のナルシズム」の前半は「自己体験においては徹夜的徒労というのは決して無駄なんかじゃなかったよ」ということを言いたいのだと思う。

ところで、僕はぜんぜん徹夜をしないので、勉強やら仕事やらで誰かから「昨日は徹夜だったんだよねー」と自慢気に言われるとイラっとする。徹夜するだけ頑張った、その頑張りを認めろ、というような風潮が世の中にはある。これは明らかにおかしい。なぜなら、徹夜をすることは目的ではないからだ。徹夜はだいたい非効率で、世の中ではだいたい効率的な結果を求められる。そりゃあ徹夜で頑張りましたよ、というポーズが喜ばれるシーンもあるかもしれないけど、「「徹夜のナルシズム」のナルシズム」も別にそこを求めているわけじゃない。徹夜はまあ、せいぜい必要悪なんだと思う。

非効率的な徒労が決定的な解決に繋がるケースもあるよ、というのは賛成する。でもそれはそんなに多々あることじゃないし、最初から目指すべきところでもない。だから必要悪にすぎない徹夜が礼賛される風潮を断じた「徹夜のナルシズム」はいいエントリーだと思う。「「徹夜のナルシズム」のナルシズム」は例外的なケースを取り上げて、徹夜礼賛を取り戻そうとしているように見えてしまう。徹夜派の人達は逆に見えるのだろうか?ちょっと気になる。

ところで、どうして結果だけで満足する人が「ただの人」ないし「お役人」なのだろう?ここが一番よく分からない。その勢いで、元のエントリーにある「本当に出来る人は、自己満足だけ求めないで結果だけ求めます」を「結果だけで満足する人」と読み替えるのはちょっと嫌らしいかなと思う。結果だけを求めてちゃんと結果を出した人は、結果だけに満足するのではなく、その過程にも満足するだろうから。

あと自分は本当にメタ議論が好きだなあと思った。どこかにメタ研究所があれば、悪くないメタ研究員になれると思う。メタ仕事をメタメタこなすの。